2013年5月18日土曜日

いつまでも馴染めない言葉


良く目にするが、違和感が消えない言葉がいくつもある。なぜ違和感が消えないのか、またはなぜ世間ではよく使われるのかを考察する。

1. 「いのち」

これは政治家のせいですな。特に社民党が濫用してから違和感を感じるようになってしまった。「いのちを守る政治」とか「命を大切にする政治」など、ほぼ意味不明な使い方をする物だから、「いのち」(しかも平仮名である)にネガティヴイメージがついてしまった。政治家が言う命とは本来、日本国民の生命であろう。政治の本質とは、突き詰めて言ってしまえば国民の生命と財産を守ること、すなわち統治であるはずだ。であるから、イラクに勝手に行って武装勢力に誘拐された連中でさえ日本政府は救出したわけだ。国民の命を守れない政治に存在価値は無いから。これが本来の「命を守る政治」の筈であり、当たり前のことなのである。ところが平仮名の「いのち」とは何なのか。この定義が曖昧であれば、それを守る政治とか大切にする政治の意味も曖昧になるはずで、実際そうなっている。こう言った雰囲気だけ(しかも嫌らしい)で良いことを言ってるように見せかけている政党には、きっと表に出せない本音があるのだろう。だからぼかすのだと思っている。それにしても可哀想なのは命である。生命とは何なのか、と言うのは重要な問題なんだがな。

2. 「生き様」

これも醜い言葉だよな。なぜ「生き方」じゃあ、いかんのか。俺の記憶では白土三平の「カムイ伝」に載ってた記憶がある。左翼のジャーゴン、って訳でも無いか。恐らくは「生き方」では生ぬるいぐらい激しい有様を表現するのに、あえて野卑な言葉遣いをしたものと思われる。と言うか、死に様から連想して作られたのは当然だろう。死に様と死に方は似ているようで違う。死んでいる様子と死因の違いだろう。しかし生き様は明らかに生き方のことである。だから「生きている様子」と考えると訳が分からなくなる。言葉として矛盾を内包した、醜い言葉だと思う次第である。

3.「個性を伸ばす」

個性ってわざわざ伸ばす物なのだろうか。個性ってのは押さえつけても発露せざるを得ない物なんじゃ無いか。この言葉が教育にくっついて出てくると大変うさんくさい。教育ってのは常識を身につけたり、世の中で通用する知識や教養を身につけたりする物じゃあ無いだろうか。共通言語を身につけるというか。「教育とは平凡への強制」と言う言葉もあったな。「個性的」であることが普遍的な価値であると思い込まされた人々が、子供に無茶苦茶な名前を付けて「個性的」であろうとしているでは無いか。しかし実際に現れるのは変な名前がついた凡庸な人間であると思う。本当に個性的な人間は勝手に現れる。それこそ平凡を強制されようが、お構いなしに個性が発現するであろう。それによって本人が幸せになるかどうかは別問題だが。

4. 「思い」

「いのち」に似ている。大したことを言ってないのに意味ありげというか。気持ち、と言う方が正しいだろうに。それじゃあ軽いと考えて重い、いや「思い」とするのか。なんかなあ。

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